3.大念寺新村

(じん)兵衛(べい)隠棲(いんせい)した大念寺新村は、享保3年(1718)2月19日に家数217軒を数え、宿場町としても栄える大集落となった。大念寺新村は、寛永9年(1632)に若狭の者が、国浦に密漁の目的で大念寺村(志賀町高浜)の北側砂丘上に住み出したのが始まりと記される。明治20年6月、大念寺新村は、故郷若狭高浜の地名にちなんで高浜町に改ためられた。

・・・福野村 気多神社・・・・

大念寺新村の南の福野潟西海岸には、旧来から福野村(志賀町福野)という集落がある。大念寺新村を下福野と言うのに対して、福野村は、上福野と称したという。この福野村鎮守社は、羽咋郡志賀町字福野イの1に鎮座する気多(けた)神社である。古くから両部神道の神社で、薬師社とも称されていた。

文政11年(1828)9月に羽咋郡社家触頭(ふれがしら)の櫻井多善に宛てた神主岩尾安房の由来書上帳によれば、福野村産神(うぶすなかみ)の気多大明神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)をまつる神社である。

・・・福野村 気多神社の氏子には、甚を通字とする櫻井姓が、・・・・

昭和51年発刊の石川県神社誌には、神主に吉井俊彦、神社の責任役員の一人に櫻井甚平の名前が確認される。吉井宮司によれば、櫻井甚平は、農家で30年ほど前に亡くなり、その子孫は福野村には現在居住されていないとのことであった。石川県の板碑(いたび)研究で著名な郷土史家故櫻井甚一は、福野町出身で、祖先が一宮気多神社の平国祭(おいで祭)の際の神馬飼育にかかわっていたようである。

福野潟に面した浜方は、滝谷妙成寺(羽咋市柴垣滝谷・北陸の日蓮宗本山)の影響もあり日蓮信徒も多い。しかし福野村は、圧倒的に浄土真宗の影響が強く真宗王国にふさわしい地域であった。

権大宮司ご先祖の足跡を訪ねて(3) 大念寺新村 2006/11/4〜6

・・・志賀町釈迦堂(釈迦堂村)にも、気多八幡神社・・・・

釈迦堂の気多八幡神社は、天正12年に一宮のおいで祭の神輿巡行が記録されている。大正3年には、釈迦堂の八幡神社に合併された。大島村・福野村・福井村3カ村の惣鎮守社は、意富(おう)志麻(しま)神社である。当地は石動山修験道の重要な拠点であった。

天正5年(1577)、櫻井基盛知行目録には、気多(けた)権大宮司役の6月晦日(みそか)神事に十文ずつを大嶋七院(意富(おう)志麻(しま)神社の社僧)に塩釜役の負担を課している。

また石動山修験道と連携していた一宮気多(けた)社僧長福院は、元和元年(1615)5月16日、大阪夏の陣に布陣する前田利常の暑中見舞いに、この福野村の干瓢(かんぴょう)五束を送っている。福野村の干瓢(かんぴょう)は、幅広で滋養に富むと好まれたようだ。

以上のように、福野村一帯は、中世末期から気多(けた)社と石動山修験道の本拠地に加えられていて、近隣の甘田(あまだ)()(志賀町甘田、羽咋市柴垣町、滝谷町)には気多(けた)神社の免田が散在しており、権大宮司家が関与する地域のひとつであった。従って、大宮司櫻井(じん)兵衛(べい)が隠棲するには、格好の地と言えた。

・・・おいで祭も大念寺新村を巡行・・・・雄谷家に寄る

明治13年1月20日の神社明細帳による羽咋郡福野村気多神社は、氏子戸数121戸、氏子総代は雄谷(おうや)善右衛門で、神主は意富(おう)志麻(しま)神社の伊藤純三が兼務している。

一宮気多神社のおいで祭は、滝谷、岩田、坪野、宿女、で修祓(しゅうばつ)を行い、福野村の雄谷(おうや)家でしばし休まれ、当主が玉串を奉奠する。その後、高浜(大念寺新村)を巡行し、滝谷で一泊される。

境内には、薬師如来を奉斎する薬師堂があり、堂内に正安4年(1302)5月7日に建立した日静を顕彰した妙法蓮華経石碑がある。(日静は、佐渡に流された日蓮上人の弟子で、日蓮宗を能登に伝播した第一人者となる。)薬師堂では、8月12日にザイショ講が行われ、妙成寺管主と柴垣本成寺の住職も参列する。村の有力者である雄谷(おうや)本家は、浄土真宗であるが妙成寺門徒でもあった。